「誰がネットを食い尽くしたのか」――2026年、静かに沸騰する“反収益化”の正体
嫌 儲という、かつてはインターネットの暗がりで嘲笑交じりに語られていた俗語が、2026年の今、不気味なほどの切実さを伴って私たちの日常を覆い始めている。スマートフォンの画面をなぞれば、目に飛び込んでくるのはAIが数秒で粗製濫造した検索稼ぎのテキスト、小銭拾いのために過激化するショート動画、そして広告を踏ませるためだけに張り巡らされた無味乾燥な動線だ。かつて無償の好奇心と個人の偏愛で満ちていたサイバースペースは、いつの間にか資本を吸い上げる巨大な乾いたポンプへと姿を変えた。その息苦しさに耐えかねた人々が漏らす反発は、もはや過去の遺物ではない。
街頭やソーシャルメディアで市井の声を聞くほど、日々の情報流通に対する強烈な倦怠感が浮き彫りになる。他人の善意や創作物を無断で学習モデルに放り込み、右から左へ横流しして平然と富を得るエコシステムへの反発。すなわち現代社会における嫌 儲の感情は、オタク層のやっかみなどではなく、デジタル空間を生きる一般生活者の防衛本能として再定義されつつある。便利さを追い求めたアルゴリズムが、結果として人間同士の基本的な敬意をすり減らしている。
「タダ乗りの経済」に対する、遅すぎた大衆の怒り
歴史を紐解けば、この感情の根底には常に「不条理な中抜き」への不信感があった。2000年代初頭、匿名掲示板の雑談を無断で切り貼りし、莫大なアフィリエイト報酬をかすめ取っていたまとめサイトへの嫌悪感。あれが局所的な小競り合いだったとすれば、いま起きている地殻変動はインターネット全体を巻き込む規模だ。
構図はより露骨で、情け容赦がない。無名の個人が残した他愛のない日常の記録、試行錯誤の末に生み出されたコード、丹精込めて描かれたイラスト。それらが本人の知らないところで自動クローリングされ、誰かの「不労所得」を生み出す養分として消費される。泥棒が賢者として持て囃される市場に、いったい誰が拍手を送るというのか。汗を流した人間が馬鹿を見る構造への怒りは、すでに臨界点を超えている。
生成AIが生んだ空虚なトラフィックと「焼け野原」のウェブ
2026年の検索窓は、もはや荒野の入り口と化している。何かを調べようと指を動かしても、上位に並ぶのは人間味を極限まで脱臭した合成テキストの群れだ。「いかがでしたか?」構文こそ廃れたが、代わりに現れたのは、文法的に完璧でありながら何の中身も持たない無機質な情報の壁。そのすべてに、これ見よがしな成果報酬型リンクと追尾型広告がこびりついている。
虚無のトラフィックを買い取らされる広告主にとっても、これは悪夢に他ならない。インプレッションの数字は跳ね上がっても、実体のある購買や共感には一切結びつかないからだ。いわゆる「死んだインターネット論」は、SFの小噺ではなく上場企業の損益計算書を直撃する現実的なリスクとなった。誰も読まない文章で小銭が回り、誰も得をしないサイクル。この茶番に付き合う義理は、画面を見つめる読者のどこにもない。
かつての掲示板文化から、全世代の「倫理観」への転換
かつて「金儲けへの嫉妬」として片付けられていた言説は、ここ数年で劇的な変質を遂げた。いま多くの人が抱いているのは、富裕層への羨望ではなく、共有地(コモンズ)としてのウェブを荒らし回る行為に対する倫理的な不服従だ。
都内のIT企業に勤める30代の開発者は、ため息混じりにこう漏らした。「昔は『金儲けを嫌うのはネット初心者の僻み』と小馬鹿にする空気が確かにありました。でも今は違う。自分のタイムラインを荒らされ、他人の努力が安易に現金化される手口を拒絶するのは、至極まともな衛生観念です」。
過度な商業化に対するアレルギーは、とりわけ10代から20代のデジタルネイティブ世代で顕著だ。あからさまなタイアップや、バズを狙った作為的な演出を嗅ぎ分ける彼らの感覚は冷徹なまでに研ぎ澄まされている。「魂を売った」と見なされた発信者から、フォロワーは音もなく立ち去る。経済的合理性を優先しすぎた人間が、真っ先に信用というかけがえのない元手を失う皮肉がそこにある。
収益化を降りるクリエイターたち:非営利コミュニティへの回帰
こうした疲弊を背景に、あえて「収益化の環」から脱落することを選ぶ作り手たちが増えている。過度なアルゴリズムの競争に背を向けた表現者たちが向かう先は、招待制のDiscordサーバーや、広告を一切挟まないクローズドなコミュニティ、あるいは分散型の独立したネットワークだ。
数字を追いかけるラットレースを降り、親しい数十人、数百人とだけ言葉を交わす。そこには爆発的な拡散力もなければ、億単位の広告収益も存在しない。しかし、そこには荒らされることのない静寂と、表現本来の純度が保たれている。
人に見せるためではなく、自らの思考を留めるために書く。2000年代初頭の個人テキストサイトを思わせる素朴なウェブページが、若者の間で静かなブームとなっているのも象徴的だ。トラッキングを拒否し、広告を締め出した小さなデジタルガーデン。そこは、商業主義の嵐から身を隠すための、現代のシェルターとして機能している。
プラットフォーム資本主義の黄昏と、デジタル自給自足の未来
「無料で使わせる代わりに、ユーザーの注意とデータを吸い上げて広告主に売り渡す」――四半世紀にわたって君臨してきた巨大テック企業の勝利の方程式は、いま制度疲労の極みに達している。受け手がコンテンツの背後にある打算を見抜き、安易な誘導を嫌悪し始めたとき、このビジネスモデルの基盤は音を立てて崩れ始める。
問われているのは、情報に対価を支払うことの是非ではない。誰がその価値を真に生み出し、誰が不当にピンハネしているのかという、極めて根源的な分配の正当性だ。情熱を搾取し尽くした後に広がる焼け野原で、私たちは何を信じて言葉を交わせばいいのだろうか。
端末の電源を切れば、部屋には深い沈黙が戻ってくる。押し売りされる通知も、誰かの小銭稼ぎのために演出された怒りもそこにはない。インターネットがかつて抱いていた無垢な輝きを取り戻すことは不可能だとしても、自らの感情や時間を安売りしないという決意だけは、スクリーンの向こう側に確かに根を下ろしている。 (出典: 嫌 儲(Yahoo!ニュース))